2021年1月6日水曜日

2020年度後期 第13回:哲学書を読む

担当教員の相澤です。2021年のゼミ初めは、「哲学書を読む」 というテーマで実施しました。私の専門はフランス哲学です。ゼミでは専門の話をすることはありませんが、ゼミ生にぜひ、哲学書を読む体験をしてほしく、このテーマを設定しました。

第12回ゼミ時に、読みやすい哲学書のリストを渡し、冬休みの間に自分の気になった本を読み準備を進めてもらいました。ゼミでは、自分の気になった一節と自分の感想と考えを紹介してもらい、皆でディスカッションしました。

以下は、ゼミ生による哲学書のテキスト紹介です。なお、引用の出典を示すにあたり、電子書籍にはページ数が存在しないことがわかりました。そのため、電子書籍で読んだ場合には出典を省略しています。

Nさん:ヴォルテール『寛容論』(斉藤悦則訳、古典新訳文庫、2012)

「宗教は、この世、およびあの世で、われわれを幸せにするためにできたものである。あの世で幸せになるために、何が必要か。それは、正しくあることである。では、この世で、われわれの貧しい本性でも望みうるかぎりにおいて幸せであるために、何が必要か。それは、寛容であることである。」(電子書籍)

思想の違う相手と真に理解し合うのは難しいが、だからといって相手を攻撃して良いわけではない。重要なのは、自身とは違う考えがあっても良いといする寛容さなのだと感じた。

また、読む前は 寛容=相手を理解する というイメージがあったが、必ずしも理解する必要はないという点に共感を覚えた。コロナ等へ過剰なまでに反応してしまう昨今の世の中にこそ、こうした寛容さが必要なのではないかと感じた。


Sさん:プラトン『饗宴』(久保勉訳、岩波文庫、2012)

「愛とは善きものの永久の所有へ向けられたものということになりますね。」(電子書籍)

愛とは手に入れようとする欲望である。自分が良いと思ったものを手元に置いておきたいというエゴイズムな感じだと知りました。この本では愛の神であるエロースについてソクラテスを含む7人で語り合うというのが趣旨です。エロースを語る上で大切なのが愛です。そして愛は美しいものという前提で人間は美しいものを求めることで神に近づこうとしていると主張しています。私が読みながら考えたのは現代の恋愛にも通じることです。本文の中で愛は永遠に続くという旨の文があります。それは恋愛をして子を成していくというサイクルが続いていくということです。

 最後にこの本を通じて恋愛の核心に触れました。ただ話し合っている人物がほとんど男性なので女性側からの意見だと違うこともあるのか知りたいと思いました。


Iさん:『自由論』(斎藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012)

「他人の意見と対照して、自分の意見の間違いを正し、足りない部分を補う。これを習慣として定着させよう。そうすると、意見を実行に移すときも、疑念やためらいが生じない。それどころか、この習慣こそが意見の正当な信頼性を保証する、唯一の安定した基盤なのである。」(54頁)

これは反対意見も重要だということを言っていると思うのですが、SNSを利用していると周りの意見に目もくれず自分勝手な意見もあり、それが誹謗中傷へと繋がっていると感じました。確かに、自分に近い意見ばかり見るのほうが楽だし、ネットの仕様上そうなってしまいがちだが、自分と異なる意見も受け入れることで、より自分の意見が確固たるものになるので大切なことなのだと思いました。


Tさん:『自由論』(斎藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012)

「現代は、ひとびとが「信仰はもたぬが、懐疑論には脅える」時代だといわれてきた。じっさい、ひとびとは、自分の意見の正しさに確信がもてないが、意見をもたなければ何をすべきかわからなくなると確信している。そういう時代に、ある意見を世間の攻撃から保護すべきだとの声が出てくるのは、その意見が正しいからというより、その意見が社会にとって重要だからである。 ある種の信念は、ひとびとの幸福のために不可欠とまではいえないにせよ、きわめて有用であるから、そうした信念を是認するのは社会の利益を守ることであり、政府の義務であるとされる。社会的必要性があり、そのまま政府の義務に属することがらならば、政府は、一般の世論にも支えられた政府の意見をほぼ間違いないものと考え、それにしたがって活動してよい、というか、活動しなければならない、とされるのだ。そして、こういうまっとうな信念をぐらつかせたがるのは悪人だけだ、との発言も多い。そのとおりだと考える人はもっと多い。悪人を抑えつけ、連中だけがやりたがっていることを禁じるのは、少しも悪いことではない、と考えられている。 この考え方に立てば、言論を抑圧することは、人の意見が正しいかどうかではなく、社会にとって有益かどうかの問題として、正当とされる。有用性の問題にしてしまえば、人の意見が正しいかどうかを間違いなく判定するという責任からも免れられる、と安心できる。 しかし、そんなことで安心するような人間は、判定のポイントがただ単にずれているだけだとは気づかない。ある意見が有益であるかどうかは、それ自体が意見そのものと同様に、見方が分かれる問題であり、議論の対象となりうるし、議論を必要とするものなのである。ある意見を有害だと決めつけるためには、誤りだと決めつける場合と同様に、絶対に間違いを犯さない判定者が必要である。そして、本来なら糾弾される側に自己弁護の機会を十分に与える必要がある。」(電子書籍)

以上はある意見、主張を保護・排撃するのに対し、その意見、主張が正しいかどうかを判断軸にせず、社会にとって有用か有益かで判断していることへの疑問です。

私自身は有用または有益であればそれでいいと思っていましたが、その正しさを確認や精査する機会やプロセスはいずれにせよ必要だと感じました。そうでなければ正しさへの解釈は一方通行であると思ったからです。


Yさん:『ソクラテスの弁明』(久保勉訳、岩波文庫、1950)

「アテナイ人諸君、私にメレトスの訴状に言うような罪過がないことは、多くの弁明を要すまいと思う。それは以上述べたところで十分であろう。しかし最初に述べた通り、私に対する多大の敵意が多衆の間に起こっていることが真実であることは確かである。そうしてもし私が滅ぼされるとすれば、私を滅ぼすべきはこれである。それはメレトスでもアニュトスでもなく、むしろ多数の誹謗と猜忌とである。それはすでに多くの善人を滅ぼしてきた、思うにまた滅ぼしていくであろう。わたしがその最後であろうというような心配は決して無用である。」(40頁)

 この言葉は、容疑にかけられたソクラテスが聴衆に発した言葉です。その中で、人を殺すのは罪や悪人ではなく、多数の誹謗や妬みというソクラテスの主張は印象深かったです。現代のSNSでは、誹謗中傷が度々話題になっていると思います。自分自身でもネットを見ると、毎日といっていいほど見かけます。また、その多くが事実に基づいたものではなかったり、ただ自分が好きではないからというように見えます。ネット社会の現代では各々が、言葉や妬みで人を殺せることを自覚すべきだと思いました。


Aさん:プラトン『饗宴』(中澤務訳、光文社古典新訳文庫、2013)

「『思っていることは正しいのに、それをきちんと説明することができない——そんな状態だ』と彼女は言った。『おわかりか。これでは、知っているとはいえぬ。なぜなら、きちんとした説明もできぬものを、どうして知識といえようか。しかし、愚かさでもない。なぜなら、真実を言い当てているのに、どうして愚かさといえるのか。」(122頁)

ソクラテスはディオティマからエロスについて教わっている時に、彼女の質問にうまく答えることができません。また、「エロスは美しい」と言うアガトンの意見はソクラテスの質問攻めにより論理破綻を起こします。彼らはエロスについて全くの無知ではありませんが、この時点ではまだよく理解していません。そして、この状態が自分にも当てはまると考えました。エロスを賛美する賢者たちの会話から、あることを理解するには本を読むだけでなく、それについての説明も質問もできる場が必要だとも思いました。