2024年11月27日水曜日

2024年度 後期第10回:卒論報告

 こんにちは、現代法学部4年のMです。12月に突入しました。キャンパス内の銀杏の葉っぱはゆっくりと色づき、そしてあっという間に落ちていきました。落ち葉の道を友達と歩くと、とても満たされた気持ちになります。さて、11/27のゼミでは、私たちは、去りし12月7日に開催されたゼミ報告会に向けて、準備を進めていました。また、卒論の中間報告も同時間に行いました。今回のブログでは、そんな盛りだくさんのゼミの様子をお届けします。

最初に、卒論の中間報告についてです。今年度の相澤ゼミでは、2名の4年生が卒論を書いています。

1人目の報告者は、Kさん。研究テーマは「現代社会の引きこもりについて(仮)」。はじめに、引きこもりの定義が説明され、次にその現状や性別、年齢層などの情報に加え、「引きこもりの背景」、「引きこもりの当事者が求めていたこと」など、具体的な研究内容が報告されました。私がその中でも特に関心を持った点は、「引きこもりが先進国において多い」というデータです。日本では珍しくない社会問題として、日々、取り上げられる引きこもり。自分の暮らす国で問題になっていることに、普段は気を取られがちの私ですが、Kさんの報告で、国によってその人口差があることを知り、改めて先進国の負の側面を認識しました。

質疑応答の時間では、多くの質問が寄せられていました。その中には、次のように、引きこもりの深い部分を突くものもありました。

「そもそも引きこもりはどうしてダメなのか。」

その問いに対してKさんは、「引きこもりは本人にも家族にも辛いから」と答えていました。望んで引きこもりになった訳ではない当事者からすると、形容し難いもどかしさ、そしてその様子と毎日向き合う同居者にとって、その現状から一刻も早く抜け出したいと考えられると、私も思います。

最後に、Kさんはこれからの課題を一つ挙げました。引きこもりという現象には、多くの要因が絡み合っています。このような複雑な社会問題を扱うにあたって、取り扱う対象の限定する必要があります。そのため、今後は、論点を絞って卒論を書き進めていくそうです。


続いて、今回ブログ担当の私も卒論を書いているため、中間報告を行いました。テーマは、「あとがきのススメーその刺激と読書へのさらなる効能ー」です。「あとがき」について、自身の読書体験を元に研究しています。その目的は、「本編とは異なる立ち位置にある「あとがき」がもたらす読書時間の効能を探るため。」と設定しています。

主な作業としては、新書とエッセイ、5冊のあとがきを取り上げ、4つのスタイルに分類しました。その共通点を軸に、あとがきから感じ取れる、作家さんの個性や文体、感情を読み解いています。

発表の後、Kさんと同様に質疑応答、その他のコメントを頂く時間がありました。

私は1人のゼミ生からの、「客観的事実はどのように取り入れようと考えていますか。」という質問で特に悩みました。前述したように、個人的な読書体験を元に卒論を書き進めていたため、客観性については考えていませんでした。しかし、そのあとに他のゼミ生からの「自分は、あまりあとがきを読まない」というコメントから、自分の体験とは異なる読書時間もあることを踏まえて、あとがきについての考えをさらに深めていこうと気づくことができました。


 さて、次は12月7日に行われるゼミ報告会の準備です。相澤ゼミでは、2、3年生が主体となって本番に臨みます。パワーポイントの資料を作成する班、当日に壇上で報告をするメンバーに分かれて作業を進めています。

この日は、担当のゼミ生が作成してきたパワーポイントについての確認を行いました。相澤ゼミの基本的な情報や、活動内容、どんなことが身についたのか、などといった内容を先生と共有し、足りない部分のコメントをいただきました。特に、私たちが普段している新書報告の具体的な方法が、内容から抜け落ちていました。その点を次回のゼミまでに補い、全体の内容を通して、本番同様の発表ができる資料の作成、つまり完成形が来週までの課題となりました。

私たちは普段、個人で読んだ新書を個人で報告しています。ゼミ生同士での本格的な共同作業は、今回が初めて。ゼミ生同士お互いに探り合いながら、協力し頑張っています。

 ゼミも残すところ約2ヶ月、季節の早さを実感します。課外活動を含めた残りのゼミの時間も、今まで以上にしっかりと味わっていこうと思います。

2024年11月13日水曜日

2024年度 後期第8回

 こんにちは、経済学部2年のHです。葵祭も終わっていよいよ年末に近づいていますね!今回はE班の発表を紹介します。

Iさん 榎本博昭 『「対人不安」って何だろう』2018年

本書は、人と接する際に不安を感じる「対人不安」について、原因や事例を踏まえながら解説し、克服する方法を提示しています。

「対人不安」とは、人と接する際に、不安に感じることを指します。例えば、人とうまく話せなかったり、嘘がばれるのを恐れて、相手の言動に気を遣うなどといったことが挙げられます。著者は、人は皆、この「対人不安」を持っていると主張しています。原因は、何か自分が放った言葉で相手に見下されるのではないかと余計見栄を張ることで、気まずくなってしまうところにあるそうです。また、「対人不安」は日本人に多いようで、場所によって一人称が変わる「自己盤面依存症」というものが存在しています。

 「対人不安」を克服する方法は、自分をあまり意識せず、受け止めて他人に全力で興味を向けるべきだと主張しています。Iさんは性格的にすごく人に興味を持っていて、思いついたらたくさん質問をしてしまうようです。Iさんは、この「対人不安」を克服するコツとしてコミュニティに入って人と関わり続けたり、たくさん質問する練習をするのが良いのではないかと話していました。

 私は人と話す際にはこのような不安を感じてしまいます。Iさんの発表を通じて、私は「対人不安」を克服するためのヒントを得ることができたと思います。積極的に実践していきたいです。

Kさん 河合雅雄『不思議の博物誌』 中公新書 2003年

 本書は、身近な疑問や生物の営みなど32の小話で構成されています。その中からKさんは2つの話を選んで発表してくれました。

 1つ目はシングルライフとレイプです。この話ではオランウータンの生態について述べられています。オランウータンを含むサルは単独居住型と集団居住型に分けられます。オランウータンは、前者に該当し、行動範囲を縄張りとし、オスメス関係なく自由な点が特徴です。タイトルのシングルライフはこの単独居住からきているそうです。オランウータンは賢くて、がたいが良いのが特徴的ですが、時にはレイプと呼べる行動をするようです。メスのオランウータンは今後どうなるかわからない若いオスの個体を嫌います。つまり、エリートの遺伝子を求めると考えることができます。それに抗う形で、オスはレイプし、交尾をするそうです。

 2つ目は人とアリの資源管理です。人はモノや生き物の管理をしっかりやっていますが、アリも同様にしっかり管理をしているようです。人間は仮にその管理に失敗したとしても他の物に代えれば良いので自然淘汰されにくいとされています。一方、アリはアブラムシと共生関係にあり、アリがアブラムシを守っています。しかし、アブラムシを守っていく上で、蜜の配分などを間違えてしまうと自然淘汰されてしまいます。そのため、間違えても自然淘汰されない人間に比べて、アリのほうが資源管理が上手いと言われています。

 本書を読んだKさんは、身近なものをもっと知ったうえで、教養を深めていきたいと感想を述べていました。私も生活をしていく中で、知らないことに目を傾けてみたいと思いました。

 今回は2人が欠席となってしまいましたが、とても話題が豊富な発表を聞くことができました。身近な生活に今回聞いたことを活かしていきたいですね!次回はゼミ報告会に向けた準備の様子を紹介します。



2024年11月6日水曜日

2024年度 後期第7回

こんにちは。経済学部3年のEです。このブログのオープニングトークといえば決まって天気の話題、もしくはお洋服の話題になりがちです。この2つの話題は使い勝手が良いですからね。さて、後期の授業もそろそろ折り返しに差しかかりますね。時期的にも天気のお話は既に出し尽くしてしまったのではないでしょうか。では、「どのような話題が次からのブログのオープニングを飾るのか」を考えようとした僕ですが、ものの10分で諦めました。そして気が付きました。今回は「お洋服の話題で話を膨らませればいいじゃないか」と。早速、最近の服選びについて話そうかなと考えた僕ですが、「そろそろオープニングが長すぎるので本題に入るべきじゃないか?」とも思い、キーボードから手を離し、考える事をやめました。

今回から新書報告の2週目に入りました。今回はD班の新書報告となります。


Mさん、中原翔『組織不正はいつも正しい ソーシャル・アバランチを防ぐには』光文社新書、2024年

本書では、日本国内で実際に発生した不正事件を例に挙げながら、著者自身の不正に対する見解が述べられています。

著者によれば、不正の対義語である「正しさ」は、大きく分けて「固定的な正しさ」と「流動的な正しさ」の二種類があります。固定的な正しさには、不正が起きやすい特徴があります。その理由は、トップに立つ人が変わらないことによって考え方が固定化し、現場の人間や部下が異議を唱えても改善されないためです。これにより、不適切な状態が放置され、不正が発生しやすくなります。一方、流動的な正しさでは不正が起きにくいです。例えば、性別や国籍に関係なく多様な人材がトップや経営陣に加わることで、さまざまな視点が取り入れられ、組織の風通しが良くなるためです。その結果、不正の発生を防ぎやすくなるのです。

不正はよくありませんね。最近はChatGPTを筆頭に、生成AIがより身近になった気がしています。レポートをAIに書かせるような良からぬ輩もいるようです。まあ正直に言うと、僕も使いたい気持ちはあります。なぜ使わないのかというと、僕が普段書くような文章と、AIが書くお固い文章は明らかに違うのです。勿論、レポートなど、自分の個性を出す事が、心なしか憚れる様な場面では使いませんよ。でも、なんだか自分で見てて気持ち悪いなぁと思うのです。それだけの話です。つまり言い換えれば、僕の文章を完璧に再現してくれるAIが出現した場合、僕は手を出しかねません。(ちなみに、自分の文章をAIに読み込ませ、こんな形で文章を書いて、とでも頼めば恐らく再現可能です。)冒頭で「レポートを生成AIに書かせるような良からぬ輩がいるようです。」とかボヤいておきながら、僕も良からぬ輩とは然程遠くない位置にいるんです。「不正をして楽をしたい。」誰もが一度は思いつくのではないでしょうか。僕はそれでも決して、行動に移したりはしません。なぜなら、僕は誠実な男だからです。口にも行動にも出さず、こつこつやっていれば、周りは勝手に誠実で真面目な人間だと思い込むのです。心の中は、やましい気持ちでいっぱいなのに。でも、それでは本当に誠実な人間が損をしてしまいます。だから僕は、僕のことを「誠実で真面目だね」と勘違いして褒めてくれる人間に、こう言ってやるのです。「まさにその通りです。なんとお目が高い!」とね。不誠実な心を持ちながらも行動に出さない僕のような人間は、本当に誠実な人間が損をしないような居場所を作ろうではありませんか。

この文章を読んで心が動いてしまったそこのあなた。(そんな人いないと思いますが)斜に構えて文章を読むことをお勧め致します。要するに、僕は「本当は不正をしてでも楽をしたい。でも、そんなことをする勇気が無い人間」なのです。ただの腰抜けです。腰抜けは今日も、自分をよく見せるために長ったらしい文章で誤魔化し、取り繕うのでした。


Cさん 太田肇『ムダな仕事が多い職場』ちくま新書、2017年

本書は、日本企業に存在する無駄な仕事の多さに注目し、欧米企業との比較を通じて日本企業の問題点を指摘しています。

まず、欧米企業の特徴は組織としての存在を保ちながらも、個人の成果に焦点が当てられることです。また、年功序列のような縦の関係に縛られない側面があります。一方、日本企業では上下関係が明確で、個人よりもチームで成果を上げる協調性が重視されます。

著者は「マイクロ化」に触れ、日本企業における無駄の多さを指摘しています。たとえば、企業に送るメールの文章作成に過剰に時間をかけることなどが挙げられます。売上や業績に直結しない作業が増え、結果的に仕事量が膨大になる傾向があるのです。

欧米やその他の国々と日本では「完璧」の定義に違いがあります。欧米企業は合理主義を重視し、効率を最優先します。そういった国では、製造部品に多少の傷があっても実際の使用に問題がなければそのまま出荷することがあります。これに対し、日本企業は精神主義に基づき、部品に傷がある場合は全品回収するなど、時間と労力を惜しまない姿勢を取ります。

上記のような完璧の定義の違いで、僕はひとつだけ、思い出した事があります。小学1年生の頃、僕は毎日のように、テープが擦り切れるほど「トイ・ストーリー」を見ていました。(僕の家はレコーダーなので擦り切れませんが。)それは、僕が一番好きな「トイ・ストーリー2」を初めて観た時の事です。主人公のウッディが飛行機に乗り込む場面です。乗客の荷物が積まれる場所から乗り込むのです。このシーンで、搭乗員が乗客の荷物を積むのですが、信じられないくらい雑に放り投げるのです。ご丁寧に、荷物の中にあるガラス製品らしきものが割れる効果音付きです。有難いことに、幼少期から飛行機への搭乗機会に恵まれていた僕は、子供心に「もう二度と飛行機なんて乗ってたまるかよ。」と強く思ったことを覚えています。勿論、日本でそんなことはありませんけどね。これも他国との完璧の違いでしょうか。…じーっくり考えました。全然違いますね。これはカルチャーショックに近いかもしれません…。


Tさん 貞包英之『消費社会を問いなおす』ちくま新書、2023年

まず、消費社会とは「産業が高度に発達し、生きていく為に必要な消費だけでなく、文化的な欲求を満たす為の財やサービスの消費などが大量に行われる社会」を指します。つまり、生活に最低限必要な衣食住だけでなく、推しや趣味といったような、生活レベルより余剰な消費を沢山する社会です。著者は、消費社会の本質的な姿や、消費社会が抱える問題に向き合いながら、どのようにして消費社会を維持していくかを論じています。

消費には「合理的な選択」と「非合理的な選択」が存在します。例えば、生活必需品を購入するのは合理的な選択と言えます。一方、アイドルの握手会に参加するためにアルバムを大量に購入したり、ギャンブルにのめり込んだりするのは非合理的な選択と見なされる場合があります。非合理的な選択が貧困を招くこともありますが、それは個人の自由であると著者は述べるのです。そして、「豊かになる自由」があるならば、「貧しくなる自由」もまた保障されるべきだと主張しています。

たとえば、国家がすべての世帯に一軒家、家具、安定的な食事を提供する代わりに、自由に使えるお金を制限したとします。この場合、人々の生活水準は平等になるものの、個人が自由に楽しむ余裕が奪われてしまいます。それは、物質的には豊かであっても、人生の充実が得られるかは疑問が残ると言えるのです。消費には格差を生む側面があるものの、個人が好きなものを買い、自由を享受できるメリットも存在します。著者は、これらの要素の間で折り合いをつけるべきだと提案しています。

消費社会には課題があるものの、「それ自体が悪ではない」というのが著者の主張です。

僕はまさしく、この消費社会に生かされている典型的な人間です。「僅か数秒でもいい。僕は推しのアイドルのお目にかかりたいのだ!!」という純粋で強い気持ちが、僕の購買意欲を刺激し、CDを大量に購入させました。今思えば、当時の僕は思春期ど真ん中の中学3年生で、とても可愛いく素敵なアイドルとまともに話すことが出来ませんでした。しかし、「受験を終えれば、あの人に会える!」という気持ちが僕を何度も蘇らせてくれたのです。単純に、生存する事のみに焦点をあてるとするなら、僕の行いは無駄な消費だと言えるでしょう。なぜなら、お金を大量に消費しただけでなく、思春期を拗らせてしまい、まともに推しと話せなかった挙句、握手すらできなかったのだから。ですが、僕はこの経験を無駄にはしなかったのです。「結局、君は何がいいたいのかな?」とそろそろ思っているそこの貴方。要は、「自由に使えるお金が無い人生なんてつまらない。みんなと同じだなんて面白くない。」と、僕は思うのです。大抵の人が同様に思っている事を、僕は長ったらしく伝えたのでありました。

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皆様、お気づきでしょうか。実はD班は全員で5人います。今回は2人が欠席なのでブログの作業量は、ほぼ半減したと言えるでしょう。正直に言うと、僕は物凄くうれしいです。しかし、僕は気づいてしまいました。なにを隠そう、実は今回のブログ担当の方も授業を欠席しており、僕は急遽代打として頼まれたのです。勿論、快く引き受けました。

一方で、本来自分がブログを担当する筈だった授業の予定を確認しました。なんということでしょう。「未定」とあり、新書報告の日ではありませんでした。(新書報告になる可能性は否めませんが。)そこで僕は考えました。「本来、僕が担当する筈だった回で書き記すブログの作業量」と「今回のブログの作業量」、果たしてどちらが多いのでしょうか。いいや、そんな野暮なことは考えるべきではありませんね。どんな仕事も引き受けたからには、きちんと誠意をもって行うことが僕のモットーです。(果たして今回のブログにおける、新書報告以外の文章が誠意をもって紡がれた文章とみなされるかはわかりませんが。そもそもこのブログって活動内容を報告するもので、僕の感想はほとんどいりませんしね。)

さて、話は変わりまして、僕がこの相澤ゼミのブログに登場するのは前期第4回以来です。実は、その回も代打でブログに登場したのです。1年に2回のみ担当することのできる相澤ゼミのブログ。その貴重な2回において、全て代打で登場したのは僕だけなのではないでしょうか。そして今回の僕のブログは、歴代のブログにおいて一番稚拙な回だったと評されるのではないでしょうか。

無名の人間が、さも自分を大きく見せているかのように、自分の事を喋り散らかしたり、意見を言ったり、面白くもないのにユーモアを交えたりすると、共感性羞恥心を覚えたり、内容によっては「こいつ、痛いな。」なんて思ったりする事って、よくありませんか?それでも今回は、そうしてみたいと思ったのです。21歳にもなって、他人の事を「痛い奴」なんて思うのは、恥ずかしいことだと、そう思ったのです。というのは綺麗ごとで、本当はまともに文章を書くことが苦手だから、自分のエピソードを交えたような、こういう戦法を取りました。いやあ恥ずかしい、恥ずかしい。

次回は、E班の新書報告です。